麻雀の到達点について -主観と客観への考察2
僕は麻雀というのは主観でやるゲームだと思っています。
もちろん客観を踏まえてという条件付ですけどね。
この客観が備わっていない主観がいわゆるオカルトってやつです。
麻雀における客観は判断基準ではなくて知識に近い。
当然知っていなければいけないこと。
牌の仕組み、数の原理にとどまらず
多くの人はこう考えるとか、そういうことも含めて。
だから、
理論的思考のようでいてその実、これもひとつの感覚にすぎないのが麻雀ではないかと思います。
僕の考えでは、
麻雀を打つ上で絶対的判断基準となるのはこっちじゃなくて主観のほうです。
まあ、客観を外的判断要因とするなら
主観は、さしずめ内的判断基準といったところでしょうか。
思考、判断、アクションの軸、芯となるもの。
そのとき何を考えるかどう思うか感じるか・・・
これを固めていくものは、前にも書きましたけど、
勘ではない。
もちろん、感性(ハズいだろw)なんて大したもんでもない。
麻雀的主観というのは
経験による統計、記憶からシンクロさせる感覚です。
この主観がブレない人は往々にして強い。
僕のいうところの客観、ここがブレる人ってのは
強い弱い以前に麻雀を覚えていない人、ということになります。
また、主観というのは経験によって客観性を帯びてくるものでもあります。
麻雀は人から聞いた感覚話はアテになりません。
ただ、自分の中にその芯は作られていくものではないかと。
もちろん客観を踏まえてという条件付ですけどね。
この客観が備わっていない主観がいわゆるオカルトってやつです。
麻雀における客観は判断基準ではなくて知識に近い。
当然知っていなければいけないこと。
牌の仕組み、数の原理にとどまらず
多くの人はこう考えるとか、そういうことも含めて。
だから、
理論的思考のようでいてその実、これもひとつの感覚にすぎないのが麻雀ではないかと思います。
僕の考えでは、
麻雀を打つ上で絶対的判断基準となるのはこっちじゃなくて主観のほうです。
まあ、客観を外的判断要因とするなら
主観は、さしずめ内的判断基準といったところでしょうか。
思考、判断、アクションの軸、芯となるもの。
そのとき何を考えるかどう思うか感じるか・・・
これを固めていくものは、前にも書きましたけど、
勘ではない。
もちろん、感性(ハズいだろw)なんて大したもんでもない。
麻雀的主観というのは
経験による統計、記憶からシンクロさせる感覚です。
この主観がブレない人は往々にして強い。
僕のいうところの客観、ここがブレる人ってのは
強い弱い以前に麻雀を覚えていない人、ということになります。
また、主観というのは経験によって客観性を帯びてくるものでもあります。
麻雀は人から聞いた感覚話はアテになりません。
ただ、自分の中にその芯は作られていくものではないかと。
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